福岡地方裁判所小倉支部 昭和45年(むの4)51号 決定 1970年8月07日
主文
本件忌避の申立を却下する。
理由
一、本件申立の理由
本件忌避の申立の理由の要旨は、「申立人両名に対する頭書被告事件の公判期日において、裁判官石井恒は、腕章を着用している傍聴人に対して退廷を命じ、さらにこの点につき十分な審議を尽くさないままに裁判所職員に命じて右傍聴人らを法廷外に排除させたが、このような行動からみて同裁判官のもとでは良識ある公正な裁判が期待できない」というにある。
二、審理の経過ならびに本件申立に至る経緯
記録によれば、以下の事実を認めることができる。すなわち、申立人両名に対する頭書被告事件の公訴事実は、「被告人両名は、昭和四三年八月五日午後九時頃、福岡県北九州市八幡区紅梅町二丁目株式会社八幡乳業斜前路上において、福岡県巡査中村満男及び同丸山一生の両巡査が雪竹一徳に対し、左折合図不履行原動機付自転車の無免許について職務質問し、附近の八幡警察署陣山派出所に同行を求め雪竹が逃走しようとするのを逮捕しようとしたので雪竹を逃走させるべく氏名不詳者十数名と共同して前同日時頃、同所附近において前記職務執行中の両巡査に対し掴みかかり突く蹴る等の暴行を加え、もつて両巡査の職務の執行を妨害したものである。」というにあり、右事件については、当初寺崎次郎裁判官が担当し、中途で井上広道裁判官が引き継ぎ昭和四三年一〇月三日の第一回公判期日以降一二回の期日を重ね、その間冒頭手続ののち検察官の証拠書類の取調請求、これに対する弁護人の同意不同意の陳述、不同意の書面に代る証人の申請及びその採用決定に至るまでの手続が進められたが、担当の裁判官が井上広道から石井恒にかわつたため、昭和四五年四月二二日の第一三回公判期日において公判手続の更新に入り、右期日においては起訴状の朗読のみを了して以下の更新手続を続行した。
次いで、同年五月一三日の第一四回公判期日においては、法廷内で腕章を着用している申立人両名に対し石井裁判官はこれを取りはずすよう勧告し(これに対し弁護人から同裁判官に釈明を求め或いは意見を述べ、腕章の着用については裁判所、弁護人側とも次回期日までに考慮しておくということになつた模様である)、更新手続に入らないままで終り、同年六月二日の第一五回公判期日に至つた。
右期日においては、申立人両名及び傍聴人約三〇名が法廷内で腕章を着用していたため、同裁判官は、腕章の着用は一種の示威行動であり、一般第三者から見て裁判所に対する一つの威圧ともみられ、これを容認するときは裁判の公正に対する疑惑を招くに至るおそれがあること、腕章の着用は時と場合により禁止されることがあり得るのであつて、その禁止が直ちに団結権・団体行動権の侵害に結びつくものではないこと、表現の自由の制限には「明白かつ現在の危険」があることを要するとの見解があるが、右見解は本件の場合必ずしも採り得ないこと等を説明した上、腕章の着用者らに対しこれをはずすよう命じた。右説明に対し主任弁護人からの求釈明ないし反論があつた後、同裁判官は申立人両名に対し腕章着用の根拠を述べるよう促し、右両名の意見の陳述がなされた。
次いで同裁判官は、特に傍聴人の腕章についてその見解を述べ、裁判の公開は個人が審判傍聴以外の何らかの目的のために法廷を使用するためにあるのではないこと、裁判が公正かつ厳粛に行われるために傍聴人は相当な衣服を着用すべきであること、法廷における腕章の着用は一つのデモンストレーションであり、傍聴人の腕章着用を放任したまま裁判を行う場合、無関係な第三者からみて裁判の公正・厳粛を疑わせるおそれがあること、傍聴人に対する腕章着用の禁止は直ちに団結権・団体行動権の否定ないし表現の自由の制限につながるものではないこと、禁止についての直接の根拠法規としては、裁判所法七一条、法廷等の秩序維持に関する法律一条、裁判所傍聴規則一条三号が挙げられること等を再度詳細に説明した。これに対し弁護人二名が右説明を批判する趣旨の詳細な意見陳述をしたが、同裁判官は右陳述終了後、傍聴人の腕章の着用を禁じ、腕章をはずさない者は退廷を命ずる旨の命令を発したところ、主任弁護人から右命令に対する異議の申立があり、同裁判官は理由を付して右申立を棄却した上、退廷命令の執行を命じ、腕章を着用する傍聴人約三〇名は裁判所職員によつて法廷内から排除せられた。
そこで主任弁護人は、このような問題で傍聴人を退廷させる同裁判官のもとでは信頼して裁判を受けられないから、本件を合議体で審理する措置をとられたい旨の申立をなし、同裁判官はその意思はないと答えたが、この段階で申立人両名から、前記一に要約した理由で忌避の申立がなされた。
以上の事実が認められる。
三、当裁判所の判断
(一) 思うに、刑事訴訟法二一条以下に定める忌避の制度は、除斥の制度が除斥原因を同法二〇条のとおり限定的・画一的に定めているのに対し、これを補充しこれと相まつて裁判の公正と裁判に対する国民の信頼を確保することを目的として設けられたものであるから、同法二一条に「不公平な裁判をする虞があるとき」とは、除斥原因と同視し得るような、或いはこれに準ずるような特段の事情、すなわち裁判官と当該具体的事件との間に、社会通念に照らし客観的に見て公平な裁判を期待し得ないような特殊な利害関係があるすべての場合を指すものと理解すべきである。例えば、裁判官が訴訟関係人との間に特別な人的関係をもつ場合或いは当該事件につき重大な予断や偏見を抱いている場合等がこれにあたるであろう。これに反し、例えば法廷のあるべき姿についての裁判官の所信や法廷の秩序維持に関する見解などの如きは、当該裁判官のひろく裁判一般についての思想信条に由来する一般的なことがらであつて、具体的な事件と直接の関係を有しない問題であるから、これらをとらえて忌避の事由とすることはできないものと解せられる。すなわち、事件担当の裁判官は憲法と法律及びその良心に従い適確に訴訟指揮ないし法廷警察の諸権限を行使しうるところであつて、その結果が偶々訴訟関係人の意図と反することところがあつたとしても、そのことをとらえて不公平な裁判をする虞があるものと做しがたく、従つてまたこの一事を以て同裁判官を忌避する事由とするに足りないこと勿論である。
(二) 本件においては、前記のとおり石井裁判官は、約三〇名の傍聴人が腕章を着用している状態で裁判を行うことは、一般第三者の立場からみて裁判の公正・厳粛に疑いをさしはさむ余地があり、したがつて右傍聴人らに腕章着用を禁止するのが相当であると判断して前記命令を発したものであるから、ことは全く同裁判官の法廷秩序一般に関する思想の領域に属し、申立人らに対する被告事件との特殊な利害関係に基くものとはみられない。したがつて、同裁判官の右命令をもつて、忌避の原因たる事由とすることはできない。
(三) ところで、申立人らは、前記の命令の発布・実現自体が同裁判官の事件に対する偏見を表わすものであるとの考えを抱いているもののようでもあるので、この点につき付言する。
法廷における被告人・傍聴人等の腕章着用が時として見受けられる現今、法廷警察権の行使としてこれを制限するかどうか、またその方法・程度如何については裁判所において従来から真剣な検討が加えられ、各般の努力が試みられてきたのであつて、裁判が公正・厳粛に行われるべき要請から、その着用を全面的に、或いは審理の経過や着用の実態等に応じ必要な範囲でこれを制限するのが妥当であるとの見解も当然ながら有力に主張されてきつつあるうえ、このことは強ち裁判のあり方に関心をもつ国民多数の意向に背馳するものとも考えられずそうだとすれば同裁判官が右とほぼ同様の主張、見解に立つて腕章着用(本件では多数傍聴人の着用)を禁止したことをとらえて、直ちに事件についての偏見の所産と解する如きは、それ自体ことがらの誤解に基くかさもなくば問題を彼此混淆したことに由来するものというのほかはない。ことに、申立人らに対する前記公訴事実からみても、申立人・傍聴人らがこのように敢えて腕章着用を固執しなければならない理由は勿論その必要すら明らかではないのみならず、当の石井裁判官は前記のとおりその見解を再三詳細に説明して懇切なる説得を試み、弁護人の反論をも十分に聞いた上で前記命令を発したものであり、すなわち同裁判官には最初から被告人らと拮抗するなどの意図は全く見当らず、唯公正なる裁判の実現にのみ尽力していたことを窺知するに十分であつて、さすれば偏見を云々することは当を得ないこと甚だしいものがあり、申立人らの右見解は独自の主張を前提とするものであつてこれを容れる余地は存しないところである。
四、以上のおとり、本件忌避の申立は理由がないからこれを却下することとして主文のとおり決定する。(砂山一郎 田川雄三 日野忠和)